TEIKOKU KAIJI GAHO

その書体で組まれた文章は、全然美しくないかもしれない。
その書体で組まれた文章は、全然読めないかもしれない。
PC等のデジタル入力機器が新たな筆記具として機能しつつある現在。リスト内の数種類の中から選択される書体は確かに機能的で読みやすく、大多数にとってその限られた選択は大した問題ではないかもしれない。しかし、言葉を書き記すことは単純に情報を伝えるだけではないと思います。手書き文字に含まれる文字としての機能を除いた非合理的で無駄な情報にこそ、文書に含まれる感情を補足するものがあるのではないでしょうか。デジタル入力時代にはデジタル入力時代の新たな自分自身の筆記文字(書体)が必要なのではないでしょうか。

未知なる文字を見つけて、まずその形状にに心を奪われる。あるものは恐ろしく単純で、これで一体何が現せるのかと疑うほどの文字であり、あるものはあまりにも複雑怪奇で日常生活で、果たして読み書きが円滑に行えるのか要らぬ心配を抱かせる文字。あるものは何も感じずわずかな興味も抱かず素通りしてしまう文字。あるものは見慣れた自分たちの文字。こうした一般的な感想は奇異とされた文字の当事者としては余計なお世話であり、どんな文字でも物心付き始めたときから親しんだ文字であれば当然自分たちの文字なのである。  実際の使用上、どんな不便を抱えていたとしても他の全く知らない文字に比べれば、自分たちの文字こそ一番自分らしい文字で一番使いやすい文字なのである。それが自分の存在自体を書き表せる文字であり、喜びも悲しみも、怒りも慈しみも、感謝も文句、絶望も希望も、愛も別れも、明日の日記も昨日の反省文も、最も的確に書きあらわせる文字であろう。外国語の文字を学ぶときに最初に学ぶ文字は何であろうか。アルファベットという答えを除いたとして、通常思うところは挨拶と感謝と謝罪の相互交流に最低限必要な文字と、自分自身の存在を示す自分の名前ではないだろうか。  自国の文字を他国文字を扱う人に説明する場合、導入部分で相手の名前に変換させる行為は相手の文字への興味を増大させる上で有効的な手段であろう。文字を媒介にした交流は自分の存在と意思を文字とともに伝えることができる手段でもあるのではないだろうか。また逆に文字を学ぶことは今まで文字の壁に阻まれ伝えることができなかった、または存在すら知らなかった世界との通信経路の確立であり、伝える対象の増加にもつながる。それは自分自身の文字世界における版図の拡大なのである。侵略すべき版図ではなく、他の文字所有者または使用者と重なり合う版図の増大なのである。  また、この世界の文字というのは日本語、英語、中国語、亜剌比亜語、西班牙語など民族や国家で区分けされた文字にとどまらない。 もっと狭い世界の究極的には個人文字も含まれるのである。細かな区分において世界に二つとして同じ文字はないだろう。それは派生した字形とも、書体とも、手書きの文字とも言えるかもしれないが、民族が共通に使用し公的にまかり通っている文字だとしても、文字に対して込められる意識は万人に共通するわけではないのである。そのような共通項をもち、派生前の字形を同じにする文字の存在を認めることこそ、真の相互理解への道なのである。  活字や電子計算機入出力文字では消去されてしまった意識は、書字の段階には確かに存在していたのである。外見を整えてしまった美しく可読性に優れ、整頓され秩序的な文字列が失ってしまった書記者の本当の意思。それは書記者自身も無意識の領域かもしれないが、その言葉を理解するには重要な要素なのである。       無意識に意思を垂れ流さないための自分自身の文字と文字世界の確立と、表面には現れにくい他者の文字と文字世界の理解こそ次世紀の相互交流の基本になることは間違いないであろう。文字世界は確かにどこにでも存在するのである。

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